安永5年(1776)8月24日久保田城下、現秋田市中通に佐竹藩士大和田清兵衛祚胤の四男として生まれる。20歳に志を立て、江戸に出て苦学力行を極める。25歳の時、備中松山藩士平田篤穏の養嗣子となる。享和元年(1801)本居宣長翁没後の門人となる。享和3年(1803)28歳には最初の著書「呵妄書」を著わし、以来精勤刻苦和漢洋の書籍を読破し、いよいよ学問に心血をそそぎ、国家の蘊奥をきわめ、遂には皇朝古道学の泰斗をなし、敬神崇祖の心をといた。生涯に著述百部千余巻にして、古史、古道、易学、暦学、仏学、道学、儒学、文学、語学、尺度量法、諸宗門、和漢洋学に亙って万搬の考究をし、「霊能真柱」「古史伝」「古道大意」は神道史上における重要な著書であり、篤胤の思想の中心となるものであった。 その学問と思想は地方神宮、郷土、豪農、商人、武士から庶民にいたるまで受け入れられていった。門人553人、没後の門人1330人余と多く、ついには白川神祇伯家学頭となり、吉田家の依頼をうけて古学教授ともなった。天保12年(1841)66歳の時、幕命により国許退去によって帰藩、天保14年(1843)閏9月11日68歳で没する。
明和6年(1769)6月15日秋田県雄勝郡羽後町に生まれる。天明4年(1784)16歳の時、父の客死後、遺訓に従い江戸に赴き宇田川槐園の門に入り蘭学を修めた。また、経済学、天文、地理、動植物の学、暦算測量等を学んだ。文化4年(1807)徳島藩に招聘せられて兵学講師となる。この時『鉄砲窮理論』を著し、自走火船を考案する。これらにより一気に名声が上り、その門に集る者が多くなった。その後西洋の兵学、砲術、航海、通商を説くにあたり、時の嫌疑に触れる恐れがあり上総国大豆谷に退居し、家学大成に志を立て専ら著述に従事する晴耕雨読の生活を続ける。
文化12年(1815)47歳で平田篤胤の門人となり、48歳のとき江戸払を命ぜられ諸国を遊歴する。諸国遊歴にあたって気候、天産、風俗、人情を視察するとともにこの間に考究せる学問は多岐に亘り、著述三百種八千巻といわれる。文政2年(1819)大豆谷に三度目の僑居をし父祖伝来の宿志達成に精魂をかたむけ、『農政本論』『草木六部耕種法』の著述を完成するに至り、遂に家学を大成した。
辛苦窮乏の間にも意欲は旺んで、その気慨は常ならず、経国の学問の一大組織を完成し、経世済民の為に生涯をつくした。嘉永3年(1850)1月6日82歳で没する。